 徳川家光三代将軍の頃(1631年)幕藩体制に伴い、年貢米及び商品貨幣化の担い手は豪商であり廻運業者でした。商品流通も江戸、大阪、京都三都を中心とする流通構造が整備され、日本海西回り、東回り海運も次第に発展していきました。
河村瑞軒(1672年)により、日本海での御城米船ルートが開発され、その中に香住は柴山港が選ばれました。その頃出石藩領だった柴山に船番所(船改め所)を設置して、船往来手形や御城米御改帳の検査にあたらせました。しかし柴山港は天然の良港ですが、あまりにも奥が深い地形にあるため帆を降ろし櫓や櫂を使い検問を受け、また出港するといった不便をきたしていました。そこで利便性を考え少し西に位置する今子浦に柴山御番所の出張所が出来、入港船の検問(西暦1719年~1727年 8年間で487隻分の入港船記録)、手形、御改帳の検査を受けるようになっていったのです。
その頃今子浦は無住の地で、入港船があるたびに柴山より出向いて記録執務にあたっていました。だんだん増える入港船のために今子浦に船番所(船改め所)の出張所を置くことを余儀なくされ、それまで家城与三大夫代官様と一緒に記録執務にあたっていた、田嶋久右エ門に代官代理として今子浦船番所(船改め所)出張所の役人として職権が与えられました。
この頃は海賊船が出没し御城米船や廻航船をおびやかす暴動行為もしばしばあり、取締の任にあたることにもなりました。毎日通勤して船往来手形や御城米御改帳の検査をしていた久右エ門は非常に不便を感じ、今子浦定住(1684年)を決意し、子々、孫々まで今の任務を続け船問屋宿を生業とするということで一軒分の土地住居が与えられました。境村(今子は境村の土地)住民となった久右エ門は和泉屋権右エ門と改名し、次々に入港する船のおかげで今子浦は大いに栄えました。また、船宿としても随分栄え、多い時は300人もの船乗りが上陸することも度々ありました。
|